英会話の勉強
 中学3年間、高校3年間、大学2年間、私は8年間も英語を学んだことになるのですが...。しかしアメリカ人と向かい合ったら途端に無口の人になります。日本にやってくるバンドのメンバーに、通訳の方が「中島ファミリーバンドのお父さんです」と紹介されますと「Nice to meet you」、別れ際に「See you again」毎回これだけです。むすめ達も家内も私と同く毎回空しい思いでした。

 やがてむすめ達から「もったいなか〜、せっかくプロの人たちと話せるチャンスなのに」との意見あり、そこで家族揃って英会話の勉強を始めることにしました。企業の社員を相手に英会話を教えてるシアトル出身のジョディーンさんに我が家にお越しいただくようにしました。「中学2年生程度の英語力で充分話せます」と言われて、それならと思っては見たもののも、また単語も知ってるつもりですがなかなか口から出てきません。こんな筈ではと何度も思いながらの勉強会でした。

マイケル
マイケル・アレンとイベント出演の為、わが家での練習風景。彼の来日は日本語を学ぶのが目的だったので英会話は一切なかった。
あ〜もったいなかった。

 いちばん喜んだのは美雅でした。アリソンへ出す手紙を見てもらえるからです。またある時はアリソンから来た手紙が教材となることもありました。

 しかしその先生も半年足らずで、アメリカに帰ってしまいました。そんなある日、ピーター・ローワンが熊本公演の前日、我が家に泊まりに来ると連絡が入りました。しかしまだ誰も喋れません。そこで先輩の橋本健さんに今回も通訳をお願いしました。

 「昨日は新潟県佐渡の友人宅でで飲み過ぎて」とピーターは割り箸を器用に使いながら刺身を摘みつつ、日本酒を美味しそう飲みながら会話も二人(途中で会話の内容を橋本さんが説明)で弾んでいます。それから翌日、一緒に演奏する曲の練習をやっている途中で、無情にも「明日、どうしても外せない会議があるから」とお帰りになられました。さあっ大変だ。

 「Please, take a bath.」こうやったかいな、自信がなかな。「美雅、お前は現役の高校生じゃなかか、お前が喋らんか」「ピーターお風呂プリーズ」 翌日も「Good morning 」だけ。 そして熊本までの車中は彼のレコードを吹き込んだテープを会場まで2時間かけっぱなしでした。ア〜ア〜疲れた。


アリソン・ブラウン
 この可愛い女性との出会いが美雅の人生を大きく変えることとなりました。1991年(平成3年)10月、「第3回カントリー・ゴールド」の会場である熊本県南阿蘇のアスペクタへ出かけました。お目当てはもちろんアリソン・クラウスとユニオン・ステーションのバンジョー奏者、アリソン・ブラウンでした。

 ステージでは彼女が弾くリズミカルなバンジョーの音が実に心地よく、アリソン・クラウスのボーカルと見事にマッチしていました。

 ワクワクしながら見て、聞いた彼女達のステージが終わり、まだその余韻に浸っているとき「アリソン・ブラウンが中島ファミリーバンドに逢いたいと言ってるから楽器持ってすぐに来るように」とのBOMサービスの渡辺三郎氏からの伝言が入りました。
 

 すぐさまアリソンの前で彼女達が先ほど演奏した「Too late to cry」や「Leaving Cottondale」を弾きました。美雅の指先をじーっと見ていたアリソンが自分のバンジョーを取り出して、弾きながら教えはじめました。周りにはいつの間にか3〜40人のギャラリーになっていました。
 
 アリソンが「美雅ちゃんと文通したいと言ってる」との伝言で周りもビックリ仰天、高校1年生の美雅は盆と正月と誕生日とクリスマスが一度に来たような喜び様でした。

アリソンと美雅 美雅が作った浴衣を着てご満悦のアリソン。これが本当の青い目をしたお人形さんだ。


 あとで聞いた話ですけど、アリソンは両親とも弁護士という家庭で育ち、中学時代からブルーグラスを楽しんでいたそうです。女の子がメチャうまいバンジョーを弾くことからイジメの対象となり、しかもあのハーバード大学出身ということでプロになってからも露骨な嫌がらせを受けたと聞いています。だから自分の少女時代を思い出し美雅をバックアップしたいと思ったと言います。

 それから3年後、長女、美雅はケンタッキー州でのIBMAのファン・フェスに出演した後、単身テネシー州、ナッシュビルに残り、語学専門学校に通いながらバンジョーの勉強を始めました。


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