出演料は旅費、学費へ
 親子の断絶、家庭崩壊がマスコミで取り上げられていた当時の世相を反映してか「小学生の娘4人と母親で奏でるブルーグラス音楽、中島ファミリーバンド」は新聞、雑誌の取材やTV出演を依頼されるようになりました。

 地元の民放4局の奥様向けのワイドショーがほとんどでしたが、中にはNHK福岡放送局のニュース番組での紹介もありました。夏休みには録画ではなく生出演もあり、また全国ネット放送もありました。雑誌もゴルフ場の機関誌から福岡県の広報誌まで幅広い分野で紹介されました。
 
 また仕事で広告代理店や企画会社に出入りしていた関係上、企業や地方自治体の、集客イベントでの演奏依頼も相次ぎました。仕事としての演奏ですから出演料が入ります。毎月の小遣いが1000円ぐらいだった娘たちにはとてつもなく大きな金額です。万全の体調で演奏できるようするのが私の仕事でした。

 風邪には殊の外、神経を使いました。帰宅時のうがいと手洗いはもちろんのこと、冬にはタオルを首に巻いて寝かせ、夜中には子たちの部屋に行って布団を掛け直しました。しかし、いくら用心していても学校で移されてきます。そこで一つの曲を美砂と絵美の二人に覚えさせ、どちらかが風邪を引いたら、もう片方に歌わせることにしました。

 出演料はすべて家内が管理しました。始めの頃には子たちから「出演料からお小遣いを下さい」との意見がありましたが、それは断固拒否しました。

 そのお金は時として私の仕事で借用したりもしましたが、二度のアメリカ演奏ツアーの旅費や美雅、由美、絵美のIEI(International English Instituteー語学専門学校)への学費、生活費として活用しました。

 もし娘たちが言う通りにたくさんのお小遣いをやっていたなら、バンド活動もこんなに長くは続かなかったろうし、浪費癖のある子供になっていたことでしょう。子たちもバンド演奏をしながらいろいろと生きた社会勉強を経験してきました。


マット・グレイザー
 1992年5月、バークリー音楽学院の主任教授、マット・グレイザーとその卒業生(バンジョーは有田純弘氏)で構成するボストン・アコースティック・バンドの福岡公演はブルーグラス音楽以外のファンをも巻き込んで盛況のうちに終えました。

 50人ほどのブルーグラス・ファンが残った二次会では中島ファミリーバンドの演奏に続きそれぞれ楽器を持ってステージへ、食事を終えた彼等も演奏しながらはしゃいでいました。酒の酔いも手伝ってか、特にマット・グレイザーは嬌声を上げながら走り回っていました。

 翌朝、彼等を見送りに博多駅に行くと「マット・グレイザーが食あたりでホテルで休んでいるから、後はよろしくお願いします」と有田さんは言い残して次の公演先へと行ってしまいました。さあたいへんだ、...どうしょうか。

マット誕生日
バースディケーキーを前に喜ぶマット・グレーザー。福岡市内の病室にて

 いつも通訳をお願いしている橋本さんに事情を説明し、英会話ができる医者がいる病院を探して、まずは入院させました。しかし前夜のマーク・オコーナー張りの綺麗なフィドルを弾いていたマット・グレイザーとは別人の弱々しいおじさんでしかありませんでした。よほど苦しかったのでしょう。

 異国の地でひとりぼっちの入院生活では寂しかろうと、マイク・アレン(註1)にも連絡し彼の相手を頼みました。 

 翌日、病院に行くともうマイケルが来ていました。「由美ちゃん、明日バイオリンのレッスンをするから楽器を持って来るようにとマットが言ってるよ」とマイケルが言いました。また「林先生に頼んで、空いてる病室をリザーブしているから」と。「おいおい、大丈夫かよ...」と私の独り言。

 さっそく先生に病状を伺うと「食あたりではありません、彼の持病が出ただけ」との言葉を聞いて安心しました。次の公演を予定していた主催者たちからは「食事に生ものを出したとか、不衛生なものを食べさせた」との声が入って来ていましたから。正直言ってホットしました。

 翌24日、日曜日はマット・グレイザーの36才の誕生日でした。バースディケーキを買って行き、美雅が作った人形(お殿様とお姫様)をプレゼントして、みんなでハッピー・バースディを歌って祝いました。「このように皆んなから祝ってもらったのは始めてだ」とたいへんな喜び様でした。
 
 それから由美へのレッスンはマイケルの通訳で約2時間後々まで反復練習をするようにとカセットテープに録音しながら教えてくれました。この本格的なレッスンを受けたことが、由美の大きな自信に繋がりました。

 バンジョーのアリソン・ブラウンにフィドルのマット・レイザー、この偉大な二人の教えが中島ファミリーバンドを今日まで導いてくれました。
 

櫛田神社

福岡市博多区の櫛田神社の境内に設置されている飾り山笠の前で。

中央がマット・グレイザー


 22日から25日までの4ケ日間の入院生活でしたが24日には病院を抜け出して博多の町の見物です。ガイドブックを片手に呉服町につれて行け、次は有名な禅寺だ、山笠の飾りが展示してある櫛田神社だ、次は何処何処だと。娘たちもマイケルも「ホント病人かいな」と言い合ったものでした。

 翌日、福岡空港から飛び立つ飛行機に向かってスタッフの宮城君とマイケルと思わず万歳三唱をしてしまいました。


マイケル・アレン
 
1986年にU.S.ナショナル・バンジョー・チャンピオンシップ (カンサス州ウィンフィールド) 優勝。 前年の85年には、有田純弘氏がチャンピオンに。日本語の勉強の為に福岡市に数年間滞在。面白いことに彼が住むアパートの隣の部屋には友人のアレン・マイケルが住んでいた。

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