球脊髄性筋萎縮症
宝塚フェスも無事終えて、子たちも本格的にブルーグラスに取り組もうとしていた頃、私は身体に変調をきたしました。「最近、足腰が弱ってきたのは日頃の運動不足のせいだろう」と思い、休日には自宅近くをジョギングしました。しかし20分も走ればもう足が上がらなくなります。「もうこれは完全な運動不足だ」と毎日、職場への行帰りも歩くことにしました。しかし、いっこうに効果が上がりません。それどころかひどい疲労感が残ります。そのうち両手両足が過敏になり、物に触れたらビリッと、まるで強烈な静電気を帯びたようになりました。冬でもないのに毛糸の分厚い手袋をはめての生活です。掛かり付けの病院の紹介でとうとう九州大学医学部附属病院に検査の為に1ヶ月入院しました。
検査、検査でこの痩せた身体から毎日のように血液を採取し、やれ筋電図じゃ、やれ脳の断層写真じゃと、午前中は広い病院内を歩き回ります。しかし手足のシビレの他は何んともないので、それが済むと退屈でなりません。
お盆の日に仏壇の前で演奏。お袋が亡くなった翌年の正月にはお墓の前でバンジョーとフィドルで「春の海」を演奏しました。 そこで、子たちの練習を録音したカセットテープを聞いて問題点をチェックし、見舞いに来る家内に指示します。またレパートリーに入れる曲の選定もこの1ヶ月でやりました。
私と同じ病気(球脊髄性筋萎縮症)の人が全国で2000人いるそうです。親からの遺伝というだけでまだ薬も、治療方法も見つかっていません。
長兄と次兄と私の3人がこの病気にかかっていますが長兄は4年前に亡くなり、次兄もそのうちといった状態です。女の子は発症しないそうですので子たちは一安心ですが、私は間もなく車椅子での生活を余儀無くされそうです。
結婚してから6回目の入院でした。2年に一度、入退院をくり返していることになります。学生時代に無茶苦茶な生活を送っていた付けが回って来たのでしょう。
学習塾とクラブ活動
長女が中学に進学して間もなく「学習塾に行きたい」と言い出しました。親しくなったクラスメイトから誘われたのです。私の返事は「ダメ、勉強は学校で充分」。「お稽古事ならOK」将来、専門的な分野の仕事に就くために勉強しょうと思っているのなら話は別ですが。「学校で6時間も勉強してるのに、それからまた勉強なんてとんでもない。頭も身体も休めにゃいかん。一時的に頭が良くなってどうする。こどもは遊ばにゃいかん」と長女に言い聞かせました。
ところが両親が共働きの家庭では、家に帰っても誰もいないので、学習塾に行きたがる子も多いと聞きました。長女のクラスメイトもそうでした。兄弟が多ければまだしも、一人っ子じゃテレビ見るか外に遊びに行くしかないからでしょう。
応接間はブルーグラスの部屋でした。この部屋で録画撮りが幾度となくありました。 次は「クラブ活動に入りたい」でした。母娘でブルーグラスを演奏し始め、軌道に乗りかけた頃だったので、正直言って悩みました。家族でバンド演奏をやっていなかったら、スポーツであれ、音楽であれ、クラブ活動は大賛成なのです。しかし美雅の要求を受け入れたなら、あとの3人が困ります。
そこでみんなで話し合いをしました。はじめての家族会議です。みんなの「両立すれば良い」との意見に私が反対しました。「二兎を追う者は一兎も得ず」の例え通り、「中途半端な取り組み方では何も得るところはなく、クラブにも妹達にも迷惑がかかる」と。そこでバンドの練習に支障をきたさない放送部に入るというとで、一件落着となりました。つまり中島ファミリーバンドそのものがクラブ活動であることを強調しました。
Home Top Back Next