宝塚フェス
 太宰府フェスが済んで、つぎの目標は日本で最大規模の宝塚ブルーグラス・フェスティバルで演奏することです。レーパートリーにもブルーグラスの有名な器楽曲を加えました。ビル・モンローの「ローハイド」、カール・ジャクソンの「オレンジ・ブロッサム・スペシャル」等々。日本語もまだまともに話せない3年生の美砂にも英語の歌を少しづつ口移しで教えました。

 子供に何かを教える時、また習い事をさせる時、それを続けさせるためには何か目標を持たすことです。その目標が達成できたら、次の目標を作ってやることだと思いました。始めは目標設定を低めにして、ある程度の努力で達成できるようにします。そして少しづつ難しくすれば良いことで、それも一方的に決めるのではなく、子たちと話し合って決めたほうが良いみたいです。
 
 しかしそうは言っても、友だちと遊びたいしテレビだっていっぱい見たいのです。ディズニーランドだって行きたいのです。しかしそれを私は子供の判断にまかせました。つまり子たちのライバル心を利用しました。
 
 例えば「美雅より年下の男の子がバンジョーを弾くらしいぜぇ」「その子のお父さんは上手かったからなァ・・・」

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 これは効きました。ブルーグラスのプレイヤーは野球のピッチャーと同じで、うぬぼれ屋さんが多いのです。ライバル心も旺盛です。女の子だって同じです。だからあんな難しい楽器をこなせるのだと思います。

 宝塚フェスは毎年8月の第一週の土曜に開かれます。正式には木曜の夕方から日曜の午前中まで。現在の会場は兵庫県三田市大磯の三田アスレチック。全国、津々浦々からおよそ100バンドがやってきます。小さな子たちも遊べる場所とお友達がたくさんいるので毎年、楽しみにしているみたいです。

 演奏者は10代から50代まで幅広い年齢層ですが、40代が中心です。この3〜4日間の会場周辺では、日射しの強い昼間であろうが真夜中であろうが絶えずブルーグラスの楽器と歌声が流れています。このときばかりは40代、50代のお父さんも20代の若者に変身します。

 1988年(昭和63年)8月、前年の太宰府フェスに出演したメンバー約40名でチャーターしたバスで、その宝塚ブルーグラス・フェスティバルに参加しました。中島ファミリーバンドの出番は確か9時半過ぎでした。いつもなら床に付く時間です。あの太宰府フェスのデビューから1年、みっちり練習した成果を披露しました。家内も子たちも、その夜は清々しい満足感に浸っていました。


ブルーグラスの神様に会いに行く
 1989年(平成元年)9月、ブルーグラスの父、ビル・モンローに会いに一家揃って行きました。NHK熊本放送局から、「カントリー・ゴールドに出演するビル・モンローとの絡みを録画撮りしたいから、南阿蘇の会場アスペクタまで来てほしい」との電話がありました。

 「ブルーグラスの神様に会いに行きますから学校を休ませて下さい」
5年生の美砂が担任の先生にこのようにお願いしたそうです。後で家庭訪問の際に「ブルーグラスの神様って何と言うお名前ですか」と尋ねられました。

 TV局との打ち合わせ通り、ビル・モンローが楽屋から出てくるのを見計らって、彼の器楽曲「ローハイド」を弾きはじめました。カメラはさっきから回り続けています。子どもたちが弾いてるのを見てビックリした顔です。やがてステップを踏みはじめました。

ビル・モンローと
写真はアスペクタ玄関前でビル・モンローと(背景はカットしています。) 撮影:橋本 健氏

 「しめた。乗ってるぞ!」思わずTV局の方と顔を向き合わせました。何せぶっつけ本番だったのです。もしビル・モンローが素通りしたならば、その時に次の策を練ろうということでした。しかし私は絶対の自信があったのです。必ず興味を示す筈だと。

 ところ次は彼の代表曲「ケンタッキーの青い月」をやれとの催促で、もう彼が歌っています。だがレパートリーに入れてなかったので合わせることすら出来ませんでした。

 次の日からさっそく「Blue moon of Kentucky 」の練習をしたのは言う迄もありません。この悔しさがバネになり、また神様に聞いてもらうために1枚めのCD「Nakashima Family Band」NF-001にこの曲を入れました。それは彼のオリジナルに三味線のサウンドを入れたユニークな曲になりました。もちろんバンジョーで三味線の音を出したわけです。

 また後のアメリカ演奏ツアーでもこのバンジョーで弾く三味線サウンドが好評だったと娘たちから聞きました。


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